農事組合法人 古賀植木園芸組合
ごあいさつ
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私たちのホームページにアクセスいただきありがとうございます。長崎市の東部に位置する古賀地区は四方が山に囲まれ、美しい自然環境のなかで、植木生産、造園の普及と後継者の育成に努めてきた地域です。当地域は九州で最も古い植木の産地と言われ、約400年の歴史があります。
平成16年度より地域住民の長年の願望でありました植木の里つくりの拠点施設、長崎市植木センターが開設されました。植木センターから山あいに向かう散策道沿いには、どの家庭にも植木を植えてあります。聞いてみると、「ひい爺さんが植えた木、そのまた爺さんが植えた木」などが大事に育てられているところが数多くあります。雨が降った翌朝の会話には、必ずといっていいほど「よか雨やったね」〔植物には、いい雨でしたね〕という言葉が出てきます。植木や植物に対する愛情こそが技術を生み、伝統となって受け継がれてきたのだと思います。これからさらに植木産業の発展と緑化思想啓蒙に尽力していきたいと思いますので、ご理解とご協力をお願いします。そしてまた、是非私たちの植木の里に足を運んでください。実際に樹木のにおいや花の香りを感じてください。
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沿 革
- 元禄2年(1689)
- 古賀松原の赤瀬邦彦氏の庭園に残る『らかんマキ』が中国浙江省から移植された。平成21年(2009)現在、樹齢約六百年。
- 元禄年間(1690頃)
- 古賀松原名西山の徳右衛門が農家の副業として植木を奨励し、古賀植木発展の基礎を築いた。
- 文化・文政年間(1810頃)
- 古賀松原名に和三次、常次の二人の植木商が出現し曲松などの中国人向け植木の繁殖に力を注ぐ。また田中信右衛門が造園業を始める。
- 天保年間(1830頃)
- 古賀に植木仲間が結成され、植木の中国、オランダ輸出も開始される。
- 明治 6年(1873)
- 恵比須神社が向名札元から松原名西山へ移され、植木仲間の守護神となる。
- 明治18年(1885)
- 松田嘉平がロシアのウラジオストック、ハバロフスクに初めて渡り、植木のロシア輸出が開始される。
- 明治25年(1892)
- 古賀村農談会が発足。
- 明治36年(1903)
- 植木の奨励が始まり、原野に松や杉などを各部落で植え付ける。
- 明治37年(1904)
- 日露戦争が始まり、ロシアへの植木輸出が中断されて業者は大打撃を受ける。戦後、中国への植木輸出が活発化した。
- 明治40年(1907)
- 長崎で開かれた第二回関西九州各県連合の農水産共進会に、古賀の植木盆栽も出品され名声を博す。
- 古賀園芸組合がつくられ、初代組合長に松田嘉平就任の関係書類がある。
- 大正 3年(1914)
- 第一次世界大戦が始まる。一時的な軍需景気で造園ブームに湧く。
- 大正14年(1925)
- 古賀村苗木生産組合が誕生。
- 大正15年(1926)
- 日見トンネル開通。
- 古賀村植木園芸組合が結成され、初代組合長に久保田其吉が就任。
- 昭和 9年(1934)
- 長崎日日新聞主催の県下特産品人気投票で古賀植木が優勝。
- 満州国皇帝に古賀植木を献上。
- 昭和10年(1935)
- 古賀植木創業記念碑が建てられる。
- 昭和12年(1937)
- 古賀にハイキングコースが設けられ、植木、盆栽の即売会も開かれて古賀植木の人気高まる。
- 昭和14年(1939)
- 日本全土に統制令がしかれ、古賀植木の輸出も『九州西部園芸輸出協会』の統制下におかれる。
- 昭和15年(1940)
- 植木の病害虫駆除のため、古賀に燻蒸室、荷造所がつくられる。
- 昭和16年(1941)
- 太平洋戦争始まる。
- 昭和17年(1942)
- 中国への植木輸出が完全に停止される。
- 昭和20年(1945)
- 終戦。
- 昭和24年(1949)
- 県立諫早農高古賀分校できる。
- 昭和26年(1951)
- 田畑の植木生産への転用許可が出る。
- 昭和27年(1952)
- 古賀植木園芸組合の再強化をはかり、組合員も七十人をこえる。
- 昭和30年(1955)
- 矢上、戸石、古賀の三ヵ村が合併して東長崎町となる。初代町長松永繁一氏。
- 昭和33年(1958)
- この年から毎年5月初め古賀植木まつりが開かれる。
- 昭和35年(1960)
- 古賀植木の栽培面積が40ヘクタールを超える。
- 昭和38年(1963)
- 東長崎町が長崎市に編入される。
- 昭和39年(1964)
- 古賀植木園芸組合を農事組合法人に改組。
- 平成16年(2004)
- 松原町に長崎市植木センターが設置される。