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農事組合法人 古賀植木園芸組合
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古賀のらかんマキ


古賀植木のシンボル「らかんマキ」

 地区全部が庭園ともいえる古賀の松原、赤瀬邦彦氏の庭に古賀植木のシンボル、「らかんマキ」が天高くそびえている。
 古賀植木業が始まったとされる元禄二年、中国の浙江省から移植された名木という。樹齢すでに五百年を数えるというが、いまだ衰えを知らず、みごとな新緑の枝ぶりをみせている。幹周り3.8m、高さ9.6m、枝幅12mに及ぶ巨木。
 別称「からマキ」とも呼ばれ、道行く人を思わず自然と芸術美の中へ引き入れ、感嘆の声をあげさせている。

 しかし古賀に生まれ、育てられて子孫を残している「らかんマキ」は別にある。
 明治36,7年ごろ長崎の植木商・久保田市太郎が、大阪に商用に行ったとき、珍しいマキの苗を買い求めて帰り「種木にせよ」と植木仲間に小葉の苗を何本か分け与えた。これが「古賀のらかんマキ」の元祖といわれている。
 この原木は、その後も松原名、向名付近に残されて子、孫と育てられていったが、一本、二本と掘取られ、売られてしまったので、現在は向名片峰の松田隆さん宅に一本の母樹が残っているだけである。古賀に残っているらかんマキの元祖は、この一本だけというわけ。

淀川(ヒラドツツジ)

淀川の由来

 江戸時代のある年の初秋、連日に渡り強い風雨が続いた。やがて大暴風雨となって各地に山津波が続出し、古賀村一帯の低地の水田は収穫を目前にして荒野と化し、前代未聞の参上を呈した。このため農家は家族が食べる米すらない。当然幕府への上納米も納められない。村内の被害状況を長崎の代官所に申し出たところ、「それならば村の実情にくわしい者の幾人かが上府し大坂奉行まで届け出るがよい」ということになり、庄屋と部落の乙名が大阪へ出向くことになった。この時田島某という人が、庄屋たちの警護役として同道することになった。田島某は棒術使いの名人だったといわれる。


 やがて三人は大阪へのぼり、大坂奉行へくわしく村の惨状を報告した。大坂奉行もいたく同情し、「以後三年間は上納米を猶予する。その間に村内の水田を復旧させ、村を富ませよ」との言葉をいただいた。ただし「村民の食糧はその間は村内でまかなうこと。また米の種も他領から取り寄せてはならぬ。すべて村民一同が協力して、毎日の食べ物をけずってでも頑張れ」との厳しい条件が付けられた。それでも三年間の上納米免除の特例を得て「これで安心。はるばる大阪まで出府してきたかいがあったというものだ」と一同胸をなでおろし、帰途についた。


 さて、大阪での用件を済ませた一同は、大坂奉行への願いが聞き届けられたこともあり、せっかく大阪まで来たのだから、村への土産話に京都見物でもして帰ろうということになり京都まで足をのばした。帰りは舟便で大阪へ下り、淀川の舟着場まで来たところ、そこに植木の露店が出ていた。その露店の一軒に足を向けたのが、警護役の田島某だった。「これは珍しい。変わった木がある」田島某は露店にならぶ植木の幾本かに目をつけて、村への土産に二、三本の小さな苗木を買い求めた。


 京都見物まで済ませた一行は古賀へ帰り、田島某は買い求めてきた苗木を自宅の庭に植付けた。苗は見事に育ち、翌年の春になると、今まで見たこともない立派な赤い大輪の花を咲かせた。
 「これはよい土産を求めてきた。上府のおり同道した庄屋と乙名さんたちを招待し、ぜひ花見をしよう」と喜び勇んで自宅へ招いた。
 みごとな大輪の花をめでながら、「いったいこの木は何という木だろうか」と話が展開した。誰も知らない。いろいろもっともらしい話も出たが、「あの舟で下った大きな川の名は”淀川”と言ったな」と一人が言った。「この木の名は、三人が上府した記念にもなることだし、あの大きな川の名をそのまま付けたらどうだろうか」という結論になった。こうして「淀川」という名称を付けた木こそが、現在なお古賀に伝わる「古賀のヨドガワ」なのである。


 学説的云々は別として、古賀の人たちは先祖代々言い伝えられてきた「ヨドガワ」の由来を今なお語り継いでいる。これは古賀だけに伝わる「伝説」なのである。

ナギ

ナギのはなし

 明治中期のことである。古賀村松原名辻に住んでいた西川亀吉は十七、八歳の青年であった。
 ある夏の日のこと、滝の観音の井手せきに行き、昼の休憩時に観音様にお参りしようと、仲間と境内を上っていった。途中、何気なく境内の片隅に目をやると、今まで見たこともない変わった木が生えている。青々として、みごとな姿勢で生育している。
 「これは珍しい木だ、実はついていないか」と見回したが、実はなっていないようだ。もちろん木の名前はわからない。仲間たちは木に関心なく境内を上っていった。西川亀吉は珍しい木を見つけたので、じっとその木に見入っていた。

 まもなく四、五人のお遍路さんが、おしゃべりしながら、側を通りかかった。西川亀吉があまりにも熱心に一本の木を眺めているので、お遍路さんの一人が、「あなたは何をそんなに熱心に見ておられるんですか?」と声をかけてきた。
 「この木を見て下さい。こんな珍しい木は私は初めて見ました。それで実が生っていないかと思って見つけているんですよ」すると別のお遍路さんが「その木は金比羅さまの神木です。私は諌早の小野ですが、小野の金比羅さまの境内に神木としてその木が植えられています」と教えてくれた。
 「小野のその木には実がなりますか」
 「それは知らないが、何か丸いものが木下に落ちているのを見たことはあります」
 西川亀吉は大喜びし、「これも観音様のお引き合わせ」であろうと、さっそく境内をかけ上って観音様に深々と頭を下げ、お参りした。秋になったら忘れずに小野の金比羅さまに行って確かめようと心に言い聞かせながら・・・。

 やがてその年の秋、十月初旬。たまたま激しい台風が長崎県下を襲い、古賀でも山々の樹木も倒れるという、大変な被害が出た。西川亀吉は、台風が去ると家や田畑の後始末もせずに、袋一つ肩に背負って小野の金比羅さんに向かった。
 たずね、たずねて金比羅さままで来てみると、お遍路さんから聞いた境内の神木は、台風のため真二つに折れ、枝は地面に投げ倒されていた。不幸中の幸いというか、その大きな枝先には、たくさんの実がついている。
 亀吉は大喜びで、木の実をもぎ取っては袋に入れ、時のたつのも忘れて実を集めた。やがて袋一杯に実をつめて古賀に帰った。疲れも覚えず夜なべして一個一個、ていねいに実の皮をむき、翌朝早くから畑にまいた。

 毎日毎日気を使い、大事に育てていったが、そのかいあって翌年の春、その実はみごとに発芽した。しかし始めてのことではあるし、大半が枯れてしまい、三分の一ぐらいしか育たなかった。その三分の一の芽を大事に手入れし、やがてすくすくと生長した。
 数年後には次々と種子や苗木を他の仲間にも分けてやり、次第に増殖されて、古賀松原の「ナギ」の植木となり、格好の庭木として愛用されるに至った。

 ところで「ナギ」の木の名称であるが、古賀では最初「亀吉柴」と呼ばれていた。古賀で最初に育てた西川亀吉の名前からつけられたわけだが、植木仲間の頭であった穂立目の豊七から、「名前をはっきりさせにゃいかんよ」と注意された。
 西川亀吉は四、五人の仲間と相談して、「この木は葉が厚いうえに、引きが非常に強いから「チカラシバ」と名付けたらよいだろう」ということで、「チカラシバ」と名付けたという。
 それ以後しばらくは「チカラシバ」として古賀では通用していた。ところが、たまたま長崎の植木商久保田市太郎が横浜出張の帰り伊勢、奈良を見物した時、奈良の春日大社の境内で、この古賀でいう「チカラシバ」と同じ古木を見た。久保田市太郎は春日大社の神官に、数本の「チカラシバ」を指差しながら
 「あの木は何という木ですか」とたずねた。神官は「あの木ですか、それは「ナギ」という木です。あの木の実から採取した油で、春日大社の境内にある数多くの石灯籠に正月十六日と八月十六日の年二回、火を点じて明かりをともすのです」と教えてくれた。
 久保田市太郎は長崎に帰ると、植木仲間を呼んで神官の話をし、正式な名前は「ナギ」であると教えた。以後「チカラシバ」を「ナギ」と古賀でも呼ぶようになったという。